シルクロードに帰る日本の養蚕技術

絹の歴史と日本との関わりについてご紹介します。


シルクの起源と拡散

絹は中国人の発明で、黄河や揚子江流域で野生の蚕を家畜化したのが始まりで、5~6千年の歴史があるといわれています。

紀元前1000年くらいになると、初めは中国の宮廷内だけで秘密に行われていた養蚕も、一般の農家が養蚕するようになりました。

紀元前200年=漢の時代になると西域との貿易が始まり、絹製品は異民族へのほうびとして使われ始めたようです。そして次第に絹の魅力は遠くローマまで広まり、紀元前1世紀のローマでは絹と金は同じだけの価値で取引されていたほど人気でした。

日本へのシルクの伝来

養蚕が西洋世界に伝わるのは6世紀頃までかかりましたが、日本に養蚕技術が伝わったのは紀元前2世紀と非常に早かったようです。邪馬台国の候補地ともいわれる滋賀県の吉野ヶ里遺跡でも、養蚕が行われたことがわかっています。

奈良時代には東北・北海道を除く全国で養蚕がおこなわれ、税として朝廷に納められていました。平安時代には日本独自の模様の絹織物も作られ、鎌倉時代には地方にも広がります。室町・桃山時代には、中国から撚糸の技術が伝わり、西陣織や京ちりめん、丹後ちりめんが生まれましたが、養蚕技術が伝わっても、国産生糸の品質はずっと中国産にはるかに及ばず、高級品用の生糸は中国からの輸入に頼る状態が続いていたそうです。江戸時代には輸入量の増加により国内産の銅の大半がなくなるほど輸入超過。生糸輸入による貿易赤字解消のため、江戸幕府は国内の養蚕を強く奨励し、江戸時代中期になってようやく日本国内でも高品質の生糸が作れるようになったようです。

養蚕の近代化

幕末から明治時代、アジアに先駆けて西洋の近代技術を導入し始めた日本は、フランス式の最新機械を導入した富岡製糸場などで大量生産の手法を確立し、1900年には中国を抜いて世界一の生糸輸出国に躍り出ます。

明治から昭和初期にかけて、生糸は日本からの輸出の40-70%を占める戦略製品で、獲得した外貨は日本の近代化に大きく貢献したのです。今のトヨタの売り上げがGDPに占める割合はどのくらいかわかりますか?数パーセントです。現在でいえば、車産業の地位をかつては養蚕が占めていたのです。そのため政府は、農工大・信州大・京都工芸繊維大学などを研究拠点として定め、養蚕技術の確立に努めていました。

日本の養蚕の衰退

しかし、ほぼ同時期に中国でも絹生産の機械化が欧米資本および官民で進められたため、日中両国による絹の大量生産により、絹の国際価格は暴落。その後世界恐慌による需要縮小、代替品のナイロン・レーヨンなど人造繊維の普及により、戦後日本は輸出の主軸を化学製品や機械製品へと移し、絹生産は衰退してしまいます。

流出する日本の養蚕ノウハウ

日本の養蚕技術を習得した世代は高齢化し、後継ぎもおらず、日本本国ではその技術は継承されずに消えていく一方、技術や品種改良されたカイコは技術移転などにより、中国・ベトナム・タイ・カンボジア・ブラジルなど、現在の主要絹生産国に受け継がれました。

現在世界のシルク市場では中国が圧倒的なシェアを誇っていますが、JICAのシニアボランティアの飯久保さんによれば、日本で養蚕が盛んであった頃、中国の留学生が沢山勉強にきて、日本で品種改良の行われたカイコをこっそり持ち出してしまったのだそうです。そのため、現在でも中国で生産されているカイコは日本由来のものなのだとか。いやはや。。

中国以外のアジア各国へも、日本の先端の養蚕技術が受け継がれ、現在でも生産されています。例えば、ブラジルは日本の移民が養蚕技術を移転し、世界の有名ブランドのスカーフなどに使われる最高品質の絹製品を作っています。ベトナムやタイ、インドなどもすべて日本の技術が活かされています。

ウズベキスタンシルクの今

そんな中ウズベキスタンは旧ソ連国であったため、近代的な養蚕技術の導入は他のアジア諸国と比較して遅れているようです。生糸自体の生産量は世界第三位であるものの、品質が決して高くないため、日本の着物用の反物や有名ブランドのスカーフなどに採用されるようなものは作っておらず、通常の絹織物や刺繍糸としての用途に限られているとのこと。ウズベキスタンはかつて繭(一次品)を中国に輸出していましたが、今の大統領が方針として、自国内で加工した二次製品を中心に輸出する方向に転換しようとしています。

その支援プロジェクトが、JICAの支援で東京農工大学 川端良子准教授が支援されている活動なのだそうです。

↓ヒバにあるJICAプロジェクトのアンテナショップ

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