スザニの歴史
中央アジアは、私たち日本人にとっては馴染みの薄い地域ですが、シルクロードの激動の歴史を、各時代を反映して作られたスザニを通して覗いてみるのは、とても興味深いものです。スザニの特徴や品質は、作成年代ごとに特徴があり、5つの時代に分けられるようです(下の表参考)。ぜひスザニと共に歴史の旅をしましょう。
[ スザニの年代区分 ]
1 1758年以前 プロト・スザニ時代
2A 1750~1866年 古典時代 (東)
2B 1800~1887年 古典時代 (西)
3 1868~1925年 ロシア時代
4 1925~1991年 ソビエト時代
5 1991年以降 現代
Russell S. Fling “ Khans, Nomados&Needlework Suzanis and Embroideries of Central Asia”
1)1758年以前:スザニの誕生まで
イスラム化以前の流れ
いわゆるウズベキスタンあたりの中央アジア地方は、砂漠のイメージも強いですが、大昔(10万年前)から人類が住んでいる土地で、実は川が流れオアシスもあり、結構豊かです。
古代から文明の栄えるメソポタミア地域(ペルシャとか、今のイラン)と中国・インドとの間にあり、遊牧民とか少数民族が支配してきた地域で、交易で間に入って栄えてきました。すなわち、シルクロードです。特に交易が盛んだった時代として、紀元前2世紀の中国の漢時代や、6世紀頃の唐の時代があげられます。例えば、有名な「西遊記」で三蔵法師が首都長安からインドにいく時に、ウズベキスタンを通ったのが7世紀前半です。
イスラム化からスザニ誕生まで
8世紀頃から、アラビア半島で生まれたイスラム教が入ってきて、トルコ系イスラム国家として、華やかな時代を迎えます。
スザニの原型が生まれたのは、このあたりの時代だそうです。繁栄した高度なイスラム文化が背景にあったのでしょう。11世紀後半~13世紀前半には、花柄モチーフの手の込んだスザニらしいの小さな刺繍布が存在しているようです。また、New England州のコレクションに炭素年代測定で14世紀といわれるスザニ風の刺繍があります。
この時代使われた手法と今のスザニの手法には共通点がありますが、見た目は必ずしも今のスザニのようではなかったようです。この頃の刺繍布は主に家庭で使用する目的で作られ、作成にかかる時間や労力も家族内で捻出できる範囲でした。
13世紀前半、モンゴルのチンギスハーンが表れて、ブハラやサマルカンドを攻撃し、町は壊滅してしまいます。その後はチンギスハーンの子孫やトルコ系のティムールがウズベキスタンを支配した時代です。ヒヴァ・ハン国(1512-1920)、コーカンド・ハン国(1753-1876年)、ブハラ・ハン国(1599-1920)などを作り、ロシア支配まで続きます。
2)1800~1887年 古典時代:花開く古典スザニ文化
中央アジアの西側では、1720年にサファヴィー朝=16~18世紀前半にペルシア (イランあたり)を支配したイスラーム王朝 が滅亡したのち、混乱が訪れました。このような環境は文化を育むのは難しかったようです。
西の地方でのスザニの繁栄は、この混乱が落ち着く1800年頃まで、Manghit(マンギト朝)がブハラを統一してから国を整え終わるのを待つことになりました。一方、東側の状況は、例えばタシケントなどの東側の都市では、コーカンド・ハン国が1800年よりも早い段階で中国と交易を開始していますので、西側よりも先にスザニ文化を育む土壌が整ったようです。プスケントやフェルガ地方、スザニで有名なヌラタ地方なども混乱を免れたようです。
古典時代の東側中央アジアでは、混乱の影響が少なく、中国との交易というインセンティブがあったこともあり、高度なテキスタイル芸術の発展していきました。西側では前述のとおり少し時代は遅れますが、ペルシャ文化に触発された華やかなスザニが制作されます。
この頃作成された古典スザニは優雅で多様なデザイン、作成者の技術レベルも高く、人手を惜しみなく投入しているのが特徴。数量も少なく、市場で取引されているというよりは、むしろ商人への直接受注生産か、何か非公式のルートを通しての取引が主だったと考えられます。今日市場に流通しているスザニをみる限り、多くのスザニは古典時代後に作成されたことがわかります。
3)1868~1925年 ロシア時代
ロシアの占領で始まるスザニ文化の衰退
ロシアが中央アジアを次々と占領し、古き良き古典スザニの制作は終わります。例えば、Jizzakでは1866年、フェルガナでは1883年、Akhal Tekkesは1881年、Merv(メルヴ)Tekkesは1883年です。
一方Bukhara(ブハラ)は1868年に占領されましたが、比較的平和的に降伏したため、商業活動の継続を許されました。しかし、スザニの制作は続けられたとはいえ、この間に古典スザニの品質は継続的に後退し、1887年にSamarkandが占領されると、Bukhara(ブハラ)を含めた西側地域でもスザニ制作は終わってしまいます。
中央アジアの遊牧民(ノマド)であるLakai(ラカイ)族や Kungrat族は定義が曖昧ですが、恐らく19世紀中には古典時代が終わりました。
帝国ロシア下のスザニ制作
帝国ロシアの支配下、スザニ制作は海外顧客への販売を意識したものに変わっていきます。遊牧生活から独自のスザニスタイルを生んだLakai族も、定住化を強要され農業を学ばなければなりませんでした。1914年の飢餓をきっかけに「生活を支えるために売るスザニ」を作り始めました。
サマルカンドにロシアの鉄道が完成したのは1886年で、大勢のロシア人がウズベキスタンへ移住しました。占領以前にスザニを作っていた世代は亡くなり、スザニの制作技術は衰退し、制作コストを削減する技術が導入されます。とはいえ、ロシア人は中央アジアの布やカーペットが気に入り、輸出のための大量生産を推奨しましたが、スザニは家庭で作られたものだったので、その影響は比較的小さかったようです。
「そめ」は比較的高度な技術で、中央アジアの場合は多くがユダヤ人によるものでしたが、ロシアの支配下でユダヤ人が国外へ去っていく中、合成染料が導入されたのもこの時期でした。
4)1925~1991年 ソビエト時代
ロシアに代わってソビエト連邦支配した1925年当時、中央アジアはふたたび混乱の渦に巻き込まれます。そんな背景もあり、この時代にスザニの品質は破壊的でした。
ロシア人も中央アジアの人々も、ひどく現金を必要としていて、海外に売れるあらゆるモノを探し、売ってしまいました。そして、彼ら自身は安価で低品質なものを作らざるを得ませんでした。
義務教育が導入され、女性の自由度も改善したので、若い女性はスザニ作の他にすることが多くできました。仕事も、自己表現も自由になり、「ひと針ひと針」ぬっていたお婆ちゃんはいなくなります。スザニはもはや女性の「生活の中心」ではなくなっていきました。
5)ウズベキスタン独立後のスザニ
ソビエト崩壊後、知る人ぞしるウズベキスタンのスザニはお宝として大量に海外に流出し、コレクターの間で高値で取引されるようになります。(その様子がNHKで特集されたので、日本でスザニを知っている人はこれを見た人の可能性もあります)
現代の女性のスザニ制作状況
今は一部の人だけが趣味として自分でスザニを作ります。地方ではもっと多くの女性がスザニを手作りしているかもしれませんが、タシケントでは働く女性も多く、他に仕事もあるので買い求める人が多いと聞いています。
結婚式にスザニを用意する人もいますが、多くは最近はやりの金糸や銀糸を使った華やかな現代スタイルのスザニで、手刺繍ではなくミシン刺繍のものがほとんどです。
ウズベキスタン国内で作られるスザニのうち、高品質のものはイスタンブール経由で海外の顧客向けの高級品として扱われ、粗悪品が国内の観光客向けとしてお土産店に並ぶのが典型的な流れなのだそうです。
近年では、ウズベキスタン政府が民族の象徴として伝統文化であるスザニを推奨しているようです。
0コメント